2015年2月20日金曜日

研究紹介: 教職大学院への進学は損か得か(卒業研究)

研究紹介
 

飯島香純『長野県における教員給与体系の分析

―教職大学院進学の経済的報償と教職の専門職性』(卒業論文)

 
林 寛平(信州大学)
 
 平成20年に19大学に設置された教職大学院は、現在25校にまで増え、毎年800名程度の学生が入学している。さらに、平成27年度開設に向けて設置審査中の大学が2校、平成28年度開設に向け具体的な意見交換を実施している大学が18校あり、今後各県に広がる見込みとなっている。
 信州大学でも平成28年度開設に向けて準備が進められており、長野県教育委員会をはじめとする関係各所との協議が続けられている。信州大学の教職大学院構想では、新しい学校づくりに資する新人教員の育成と、確かな指導的理論と優れた実践力・応用力を備えたスクールリーダーの養成を描いている。
 しかし、全国の教職大学院を見ると、入学定員を満たしている大学は8校しかなく、志願者の偏りと不人気が現れている。教員養成より早く専門職大学院に移行した薬剤師養成では、学部の修業年限を4年から6年に延ばしたことによって、薬学部の志願者が大幅に減少し、薬剤師の不足や研究水準の低下が懸念されている。法科大学院では、全国的な入学者数の低下によって、募集停止や廃校が相次ぎ、制度的な行き詰まりが指摘されている。それぞれの専門領域による環境の違いは大きいが、専門職大学院における高度専門職の養成という制度が批判にさらされていることは共通している。
 本研究は、信州大学に教職大学院ができた場合、専門職学位を取得することで得られる経済的な便益を「長野県学校職員の給与に関する条例」と関連する細則等をもとに分析している。分析にあたって、教職におけるキャリアモデルを4つ設定し、短期大学卒業者、学部卒業者、大学院修了者の生涯獲得賃金を比較した。なお、給与計算は基本給を基礎に、基本給に連動する教職調整額、義務教育等教員特別手当、地域手当、期末手当、勤勉手当を合計したもので計算している。基本給と連動しないその他の手当等については、各パターン間の給与の差異に影響を与えないことから、計算には含まれていない。また、扶養手当や通勤手当、住居手当等はキャリアとは関係がないことから、計算には含まれていない。なお、昇給については、最も標準的な「良好な成績で勤務した学校職員」を仮定して、満55歳までは毎年4号棒、満55歳以上については2号棒として計算している。
 

学ぶほど生涯賃金は減る

 モデルケース①は、教職キャリアのすべてを教員として務める場合を想定している。このモデルでは、短大卒で2億2676万円、学卒が2億2242万円、院卒が2億1979万円となっていて、短大卒が最も多くの給与を得ることが分かった。短大卒と院卒では、697万円の差が生じ、これに4年間分の学費の差283万円を加えると、およそ1000万円の不利益が生じることが分かった。初任給月額を比較すると、学卒は短大卒よりも42000円、院卒は学卒よりもさらに96000円高く設定されているが、同年齢で給与を比較するとその差はわずかであり、年を経ると差はまったくなくなる。
 院卒は退職手当においても不利な条件になっている。退職手当は退職時の基本給と勤続年数をもとに計算するが、基本給には上限があり、短大卒は55歳過ぎから、学卒は57歳から、院卒は55歳から昇給がなくなる。そのため、退職時の基本給はどのパターンでも同額になる。勤続年数は35年以上が最も高い支給率を受けることができる。しかし、大学院まで進学した人は修了時点で24歳であり、すぐに就職したとしても36年間の勤続となる。いつかの時点で浪人を経験したりすると、35年以上勤めることができなくなり、退職手当が減ることになる。
 次に、50歳で教頭になるキャリアを想定してモデルケース②を設定した。この50歳という年齢は、文部科学省による全国調査の昇進平均年齢を参考にしている。なお、管理職になるには一種免許状か専修免許状が必要となるため、短大卒のパターンは除かれている。教頭になると、教職調整額(年あたり平均20万円)が支給されなくなり、代わりに給与の特別調整額(年あたり平均52万円)が支給される。そのため、昇進した最初の年とその前年の給与の差はおよそ100万円にもなる。しかし、給与の大きな変動があるのはこの時だけで、その後は緩やかに上昇し、学卒は59歳で、院卒は57歳で昇給が止まる。このため、モデルケース①と同様に、退職手当の差は生じない。生涯獲得賃金を見ると、院卒は学卒よりも223万円低いという結果になった。これはモデルケース①に比べると差が縮小しているが、依然として大きなものとなっている。
 さらに、50歳で教頭になり、54歳で校長になるキャリアを想定してモデルケース③を設定した。教頭から校長に昇進すると、給与の特別調整額は年あたり64万円に増額される。教頭から校長に昇進した最初の年とその前年の給与の差はおよそ40万円である。校長においては、学卒の60歳と院卒の59歳の給与が同額になる。このため、退職手当に差は生じない。生涯獲得賃金の差は、院卒が学卒より213万円低いという結果になった。モデルケース②と比較すると、その差は10万円強しか縮まっていない。
 以上の結果から、教諭として教職のキャリアを全うする場合も、教頭になって終える場合も、校長として教職を終える場合にも、大学院を出てから教職に就くと生涯獲得賃金が減り、経済的に不利益を受けることが明らかになった。これは、教職に就いたまま休職して大学院に通う場合でも、就学中は昇給が停止されるため、同様の計算になる。つまり、学ぶほど生涯賃金は減るということだ。
 

大学院を出ても高給取りになれるのか

 最後に、学卒と院卒の生涯獲得賃金の差が最も縮まるケースを考えた。文部科学省の全国調査では、最も若くして教頭に登用された者は36歳、校長は43歳となっている。そこで、最も多くの給与を獲得できるキャリアを想定して計算してみた。このモデルでは、昇給スピードが速いため、生涯獲得賃金は他のどのモデルよりも高いが、校長になってからの昇給が途中で頭打ちとなるため、学卒と院卒との給与差が365万円と大きく開いてしまった。
 差が大きくなった要因は、初任給の号棒にある。つまり、早いうちに昇給しつつも、頭打ちにならないペースで昇給することが最も差が広がらないキャリアとなる。この2点を考慮すると、36歳で教頭になり、52歳で校長になるモデルケース④を導いた。このケースでは、給与総額は院卒が学卒より162万円少ない結果となった。一方、退職手当は院卒のほうが学卒より約28万円多くなり、全体では院卒は学卒より134万円少なくなることが分かった。つまり、現状で考えられる最も適した条件を与えたとしても、大学院を出た教員は学部卒の教員より高い給与を受け取ることはできないということになった。
 

教員給与制度から見る教師の専門性

 教員は、免許法により授与される各相当の免許状を有するものでなければならないとする、いわゆる「相当免許状主義」を採用しており、専修免許(大学院修士課程修了レベル)、一種免許(大学学部卒業レベル)、二種免許(短期大学卒業レベル)があるが、これら3種のどの免許を持っていても教職に就くことができる。また、現状の教員給与体系では、免許の種類によって給与面や職権に違いはない。(これは長野県に限ったことではなく、教職大学院協会への電話取材でも、取得免許や取得単位によって給与面での措置を行っている都道府県は確認できないという回答を得ている。)そのため、なるべく早く就職した方が生涯獲得賃金が大きくなり、大学院修了者は不利になるという現象が生まれている。
 教職大学院は「学び続ける教師像」を求めているが、学ぶほどに生涯獲得賃金は減っていく。少なくとも、この給与表からは自らの専門性を高めようとする教員を奨励しようという人材育成モデルは読み取れない。むしろ、定期昇給制度に基づく年功序列賃金になっていることから、教師の専門性は学ぶと学ばざるとに関わらず、経験(年数)によって培われると想定された職能観が見えてくる。
 教員の給与体系は、他の公務員と同様に、職員の生活安定を図ることを趣旨として1946年頃に確立された。「年齢給」と「勤続給」による報償制度は、年齢、採用年次、学歴といった、誰の目にも明らかな属性を基準にしているため、人事や賃金の管理が容易にできる点、長期にわたる勤務を前提とすることで、若い時には賃金が低くてもいずれは報われるという希望的な魅力が生まれる点、ライフステージに合わせて賃金が上昇することで、職員の生活の安定が確保しやすい点などを強みとして採用されてきた。
 しかし、こうした定期昇給制度も、経費削減の圧力や、生産性向上のために職員同士に競争意識を持たせようとする意図から見直しが求められている。公務員制度改革においても能力主義賃金制度への移行が唱えられているが、現状では十分に対応できていない。「学び続ける教師像」を後押しするためには、教師たちに学び続けるインセンティブを与える必要がある。それは必ずしも給与面での報償である必要はないが、ディスインセンティブは改める必要がある。
 

教職の専門職性を高める教員給与制度を考える

 もう一方で、教師という仕事の価値に対する社会的認知を高め、専門職性を向上させるための方策を考える場合、教師の専門性向上に対する施策とのジレンマが生じる可能性が指摘できる。
 たとえばアメリカにおける一般的な給与表では、経験年数のほかに学歴が考慮されている。学卒の教員は10~15年程度勤めると昇給が頭打ちになり、大学院等で修学しない限りより高い給与を得られない仕組みになっている。この制度では、教員を続けるにあたっては必ずしも修学が必要ではないが、より高い給与を得るためには修学が必要となることから、教師たちが学びに出るインセンティブとして働くと考えられる。
 しかし、このように個人の専門性を高める方策を充実させたとしても、教職の社会的地位が向上するとは限らない。むしろ、学校が個人主義的になり、組織としての教育活動に支障をきたす場面が出てくるかもしれない。また、教員の質も幅広くなり、専門職集団の一員というアイデンティティの確立が阻まれてしまうかもしれない。その意味では、専門性向上へのインセンティブ付与は専門職性の発展と相反する関係にあると言える。
 そこで、教員個人の専門性向上に対するインセンティブと教員集団の専門職性の発展の両方を同時に達成できる制度を構想する必要がある。これまで、教員はフォーマル、インフォーマルな様々な研究会を組織してきた。授業を公開し、教材を共有し、協働して問題の解決にあたってきた。教員組合や官制の研修も歴史的に重要な役割を果たしてきたといえる。こういった研修や研鑽の機会は、教員個人の資質や能力を高めると同時に、教員集団が独自の文化を醸成することに貢献しており、わが国の特徴的な教育文化として根付いている。給与面での措置だけではなく、こういった研修や研鑽の場を設けることに対してインセンティブを与えるという措置も考えられるのではないか。今後、教職大学院がその新しい場として機能するためには、教職集団からの一体的な支援とビジョンの共有が必要となるだろう。

2015年2月19日木曜日

研究紹介: 若者はなぜ投票に行かないのか(卒業研究)


研究紹介


大木健晴『信州大学教育学部生の主権者意識の実態
~政治に関する意識調査」の分析から~』(卒業論文)

 
林 寛平(信州大学)
 
 若年層の低投票率や選挙権年齢の引き下げ、ネット選挙解禁やシティズンシップ教育など、さまざまな角度から若者の主権者意識が国民的関心を浴びている。中央教育審議会では、「国家及び社会の責任ある形成者となるための教養と行動規範や、主体的に社会に参画し自立して社会生活を営むために必要な力を、実践的に身につけるための新たな科目等の在り方」が検討されており、教育改革のアジェンダにもなっている。
 本研究は、若者の政治に関する意識の実態を把握することを目的として、信州大学の学生382人に対して質問紙調査を行った。同種の意識調査は明るい選挙推進協会の全国調査をはじめ、他の大学等でも散見されるが、ネット選挙が解禁され、戦後最低の投票率を記録した直後で、さらに18歳選挙権が議論される最中での意識調査という時期が重要である。調査にあたっては、明るい選挙推進協会の調査と同様の設問を含め、若年層に特有の傾向や地域性、教育学部生の特性を明らかできるように配慮している。
 

行くべきだが、何も変わらないから行かない

 まず、調査から明らかになった全体の傾向を整理しておこう。全国調査の傾向と共通して、信大生の政治に対する満足度は低い。また、他の世代と比べて、投票を「権利だが放棄すべきでない」と答える割合が大きかったが、全国調査との比較では「国民の義務」や「個人の自由」と捉える学生が少なかった。政治に満足せず、放棄すべきでない権利だと思っているのに、なぜ投票に行かないのか。ひとつの鍵が、「自分の意見や考えが、政治に影響を与えると思うか」という質問に対する回答に現れている。「強く思う」(1.6%)と「どちらかというとそう思う」(14.6%)と答えた学生はわずかしかおらず、大半の学生(60%)が自分の考えが政治に影響を与えると思わないと答えた。ここから、多くの学生が政治に不満をもち、投票に行くべきだと思っていながら、投票しても自分の意見は反映されないだろうという無力感から、投票行動に向かわないという像が見えてくる。
 

「わからない」学生の低投票率

 では、どのような学生が投票に行かないのだろうか。この点を分析すると、裏腹ではあるが、興味深い現象が浮かんできた。「あなたは、現在の政治に対してどの程度満足していますか」という問いに回答した学生の投票率は、「大いに満足している」と「だいたい満足している」と答えた学生が25.4%で、「やや不満足である」「大いに不満足である」と答えた学生は45.0%で、不満足な学生の方が投票率が高かった。これは、調査時に想定した傾向と合致している。しかし、この集計で最も投票率が低かったのは、「わからない」と答えた学生の19.6%だった。つまり、政治に対して満足しているかどうかも「わからない」学生は、投票に行く傾向が低いということが分かった。
 この「わからない」学生をさらに分析すると、彼らは他の学生よりも、受動的なメディアに触れていないことが分かった。「社会についての情報を何から得ていますか」という問いに対して、「テレビやラジオ」と答えた学生は全体より少なく、「インターネット」と答えた学生が多かった。テレビやラジオのニュース番組を「ほぼ毎日」見ていると回答した学生は、全体の平均が45.4%だったのに対して、「わからない」と答えた学生の平均は30.4%だった。新聞ついては、「ほとんど読まない」と答えた学生が圧倒的に多く、全体の割合も74.6%に達するが、「わからない」と答えた学生はさらに多い88.2%だった。学生は場面によってメディアを使い分けており、投票にあたっては、普段よりも「テレビやラジオの報道」(63.7%)や「新聞の報道」(31.9%)を参考にする傾向があった。これらの結果を勘案すると、「わからない」と答えた学生は、社会の情報に触れる機会が限られているだけでなく、特に選挙時に他の人が参考にしているメディアとの接点が乏しいことが明らかになった。この調査からは相関関係しか分析できないため、「わからない」学生は、受動的なメディアに触れても「わからない」から触れていないのか、触れていないから「わからない」のかはわからない。ともあれ、彼らが社会の情報に触れないことによって、社会の構成員としての認識が育っていない可能性が指摘できる。彼らが意図をもって受動的なメディアに触れていないのだとすれば、「私たち」の社会からの情報をミュート(消音)し、エスケープ(脱出)しようとしているのかもしれない。
 投票に行かない層に対して「投票に行こう」と働きかける際、テレビやラジオ、新聞が使われていないだろうか。この調査結果を見ると、投票に行かない人は、そのようなメディアに触れていないことから、メッセージは届いていないかもしれない。「投票に行こう」は、インターネットを通じて呼び掛ける必要がある。しかし、それ以前に、彼らに「私たち」の仲間に入ってもらうためには、彼らの「わからない」に「私たち」の側がきちんと耳を傾ける必要があるだろう。

 

学校での学習と投票行動

 次に、投票に行かない人たちはどのようにして生まれるのか。今回の調査では、学校における主権者教育のあり方を検討するために、3つの質問項目を設けた。まず、「あなたが学校で受けた政治に関する学習にどのような印象をもっていますか」という質問に対する回答は「有意義だった」(5.7%)「どちらかと言えば有意義だった」(54.5%)「どちらかと言えば意義は無かった」(34.3%)「意義はなかった」(5.5%)となっており、約6割の学生が意義を認めている。学校での政治に関する学習の意義に肯定的な回答をした学生のうち38.4%が投票に行っており、否定的な回答をした学生の投票率33.1%よりも高くなっている。
 「学校における政治に関する学習で印象に残っている時期」を尋ねたところ、「中学校」(41.5%)と「高校」(40.2%)という回答が多く、「小学校」(6.3%)、「大学」(4.7%)、「どれでもない」(7.3%)は少なかった。この結果を見ると中学校と高校での学習が効果を挙げているように読める。しかし、それぞれの回答と投票率をクロス集計すると、「小学校」と答えた学生の投票率は27.8%で、同様に「中学校」は33.1%、「高校」は40.3%、「大学」は53.8%、「どれでもない」は23.8%となっている。上の段階になるほど投票行動との相関が強くなり、特に大学での学習が印象に残っている学生は投票率が高いことが分かる。
 また、「今までの児童会や生徒会などの活動への参加はどのようなものでしたか」という質問に対しては、「積極的であった」(27.6%)「どちらかと言えば積極的であった」(41.2%)「どちらかと言えば消極的であった」(20.7%)「消極的であった」(10.5%)という回答が得られた。この結果については、教育学部生に質問しているという点に留意が必要である。児童会や生徒会などの活動に「積極的であった」「どちらかと言えば積極的であった」と答えた学生のうち42.1%が投票に行っており、「どちらかと言えば消極的であった」「消極的であった」と答えた学生の投票率23.5%を大きく上回っている。
 

学校が「わからない」学生を生んでいる可能性

 ここで再び「わからない」学生だけを取り出して相関を見ると、児童会や生徒会への活動に「積極的であった」学生の割合は29.4%で、全体よりもわずかに大きくなっている。一方、「どちらかと言えば積極的であった」(26.4%)は大きく減り、「どちらかと言えば消極的であった」(24.6%)「消極的であった」(19.1%)がそれぞれ増えている。「わからない」学生を全体の傾向と比較すると、児童会や生徒会の活動にあまり積極的に参加していなかったことが分かる。児童会や生徒会に対して積極的であることが明らかな教育学部生という集団特性を考慮すると、このような違いは一般の若者ではさらに大きいと予想される。
 ところで、児童会や生徒会が民主主義教育の礎として機能している学校はどれほどあるだろうか。少数の優等生が「代表」になり、日常の学校生活に大した影響のない議論を形式的に行っているという学校も多いのではないだろうか。そう考えると、児童会や生徒会が少数の「私たち」と多数の「彼ら」を生み出してしまっているのかもしれない。学校は若者にとって最も身近な社会だが、若者はその小さな社会に主体的に参画しようとする意識をもっているだろうか。指導者は、単に知識として主権者教育をするだけでなく、子どもや若者たちを学校の主権者として参画させ、民主主義の社会に導けているだろうか。もしかしたら、学校に通う時期からすでに若者たちの社会からの「脱出」が始まっているのかもしれない。これらの仮説は、今回の調査から説明することには限界があり、別の研究としてさらに深めていく必要がある。
 

包摂する社会にむけて

 シルバー・デモクラシーと指摘され、世代間格差やブラック企業によって若者が社会的に虐げられているという認識が広がっている。その言説は、社会から排除される若者像を描いてきた。しかし、今回の調査から浮かんだ仮説は、むしろ若者が社会から逃げ出しているのではないかというものだった。民主主義は社会の全構成員を包摂することを仮想して成り立っているが、その仮想が本質的に達成されることはない。その意味で、民主主義とは常に全体の包摂に向けた装置であり、過程であるとも捉えられる。本調査からは、主権者教育が、主権者意識育成の阻害要因になる可能性も示唆された。誰もが社会から排除されることなく、また、社会から逃げ出さなくてもいいように、「彼ら」の声に真摯に耳を傾ける必要があるだろう。